Improvements -いんぷるーぶめんつー

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骨髄採取成功

昨日は、弟憲二の骨髄液採取が行われ1回5時間程度で、良質な骨髄液が大量に20,000個以上採取できたそうだ。すばらしい。弟の採取はそれで終わった。私は、今後近いうちにこの骨髄によって新しい命を受けることになる。このままでいけば、いずれ長くても数年ののちには、死亡すると医師から言われている。それは、信じにくいことだ。肉の癌は非常な痛みを伴うので死期を予感できるが、私のこのがんは痛みを伴わないので死期を予感できにくい。だから、数年で死ぬというのは半信半疑なのだ。しかし、それは空論ではなく医師がはっきりと告知宣言するほどの現実の問題なのだ。

今、私が治療している病院に弟が札幌から来てくれて、骨髄移植のための骨髄液採取のために入院しています。先週の木曜日から入院し、白血球を増やす注射を毎日打ちました。けっこう副作用が出ているようです。中でも心拍の動拍が強くなり少し心配な様子でした。明日から骨髄液の採取にかかります。明日で予定量を取り悔いれなければあさっても行います。

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来世について

来世について
来世は霊界ともいう。霊界には霊しか存在しない。そこは、死んだ後に行く世界だ。人も動物も木も植物も存在する。霊界の木は、一本の木に100色以上の花を咲かせるものがあると聞く。そして、霊界は「ここである」とある預言者は説く。そう、霊界はこの世と同じ場所にありながら次元が違う世界なのだ。だから、我々には見えない。しかし、おそらく霊界からは私たちを見ることができる。
時々、何らかの原因でこの現世と来世の霊界との幕が薄くなることがあるという。その時は、霊が地上に出てくることになる。しかし、幽霊などとたわごとを言ってる人々は真理を知らない。幽霊なるように見せかけているのは、悪霊である。悪魔つまりサタンは霊体である。肉体を有していない。だから、どんな様態にもなることができる。悪魔は我々に恨みを持っているので、幽霊などと扮して脅かすのである。しかし、本当の霊は、人間と見分けがつかないという。もし、目の前に何人も人がいたとしてその中に霊体がいたとしても我々には見分けがつかない。霊とはそれほどに精巧な存在だ。だから、街中でもしかしたら人だと思ってすれ違っている人が実は霊かもしれないということだ。でも、それが霊体か肉体かを識別する術はない。一つあるとすれば、蝕知しうるかどうかを確認するしかない。霊体は幽霊のように透けてはおらず肉体そのままのように見える。だから見分けがつかない。悪さをするのは、サタンの手下だ。実は悪魔には驚くほど多数の悪霊が僕としている。それらの悪霊たちは、悪魔すなわちサタンに従うと契約をした者たちだ。皆、何らかの理由で肉体を持つ人間を恨んでいる者たちだ。彼らの住み家は霊界ではない。この現世である。なぜなら、彼らは永遠に肉体を所有できないので、その恨みで我々人間を脅し誘惑しやがては自分らと同じ境遇に陥れようと狙っている。それが、人の心に入り込んで人を誘惑し悪を行わせる。しかし、心を悪霊たちに許さなければ、悪霊たちは何もできない。しかも、彼らは我々の言葉を巧みに利用する。しかし、心の中を読むことはできない。できるのは、神と神の使者だけだ。だから、心の中で神に祈り願うことは悪霊には理解できない。だから、誠心誠意神に祈ることが大切なことだ。来世は、二つの世界に分かれている。それは、また次回に話すとしよう。

「死」について

死」について
最近死について考えることが増えた。
死は誰しも迎えたくない人生の最たることではないかと思う。
なぜなら、死を経験することはこの世での生活が終わることになるからだ。
なぜこの世の生活が終わることを人は歓迎できないのだろう。
春になれば多くの人は、引っ越しをしてそれまでの生活を終え別の新しい土地で生活をする。しかし、そのことを嫌悪する人はそういないだろう。
では、なぜ死によってこの世での生活を終えることがそんなに怖いのだろう。
それは、死は未知だからだ。死後にどうなるのか経験したことがある人は、ほとんどないからだ。中には、あの世に行った経験のある人もいると聞いたことがある。
しかし、ほとんどの人は死後自分が滅して無になるのか、それとも別の世界があり新しい生活圏があるのか未経験だ。
人は、未経験で知識のないことへは畏れを感じる。畏れると同時に強い関心をひかれる。
 ジョセフ・スミスというかつての預言者は、「死とは今いる部屋から隣の部屋へ行くように容易なことだ。」と説明している。
それは、意外な回答のように感じるが、そうであれば死を恐れる必要はなくなる。
 考えてみれば、死にたくないというのは、現世にいる者のエゴなのかもしれない。
本当は、死によって人生の進歩を来すとするならば、それを拒むことになる。
もし、来世の人たちがこれを聞いたとしたら、実に愚かなことに恐れているように思うかもしれない。
しかし、死に対する畏敬の念はこれからも継承されないだろうと私は想う。
 この世の真理を知らない人間は、この世にのみ生きることに喜びと幸福があることを願ってやまないからだ。

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不公平について

不公平について
不公平は、人生の基本だと気づきました。生まれてくるとき全ての人は、みな違った環境や境遇で始まります。それは、すでに不公平の状態から人生が始まっていることを意味します。
 しかし、人は不公正を嫌いその不公平さを是正しようと努めます。ある人は、努力によって多少不公平感は緩和したように感じる人もいます。しかし、不公平はまだ存在します。つまり、どこまで行ってもどんなに努力しても、不公平感は存在し続けます。それは、幸福でしょうか?私は、幸福感をあまり感じいられないのではないかと思います。
 そこで不公平を受け入れることを提案します。私も最近そうしました。不公平は、それ自体人生で共存するものであり無視できない存在だからです。皆が同じ状況が公平で満足できるのでしょうか?個々の幸福感を得られるのでしょうか?ある意味、不公平と幸福は共存しながら人生は推移していくものなのかもしれません。
 人と違っても人より給料が安くても、向かえのような立派な戸建て住宅に住んでいなくても、ベンツやレクサスに乗っていなくて軽自動車であっても、幸福は存在します。幸福とは他人と比較することではないのです。それは、ある意味自己満足に過ぎないことかもしれません。でも、あなたがそれで良ければそれは幸福なのではないでしょうか?ムヒカ大統領がそう説いたように、イエス・キリストが罪がないのに罰を受けたように。あなたの不公平と幸福は共存しますか?それはどんなことですか?よく考えてみましょう。

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